'00/7/21 fri  弐千円札

 海の日と土曜日に挟まれた平日の金曜日。ここのところゆっくりと休む余裕がなかった荒熊でありますが、心身のリフレッシュを図るためにもメリハリをつけて休まないとねってなことで、久々の4連休を過ごしてます。

 そんなワケで、ぐっすりと深い眠りから覚めた朝も、うだうだと布団の中でうたた寝をして、いざ起きようと まるで猫のように ぐーっと「伸び」をした瞬間、

うぅぅうぅぅ......

悲劇はおとずれました。

 肩甲骨(けんこうこつ)の裏なんだか、首の付け根なんだか、鈍い痛みが.....。それ以来、まるで寝違えたような重い痛みが残ってます。

 すっきりした休日を過ごしたかったのになぁ。ちと あてがはずれてしまった。


 そんな平日の午前中。散歩がてらに銀行に寄りました。なぜか。

もちろん、二千円札をゲットするためだ!

 7月19日に発行された二千円札。賛否両論あるようだけど、荒熊は歓迎であります。

 今までの「1」と「5」の組み合わせは、おそらく「そろばん社会」に根付いた概念が強く影響してるんじゃないかと思うんだ。もちろん、この概念は すごく理解しやすい面があるよね。

 でも、財布の中じゃ、実はこれ、あんまり理に適ってなかったんじゃないかと思うのだ。

 お金を使うとき、財布の中が整理されるように考えている人は、「5」の単位の貨幣は「1枚あるかないか」のどちらかになるよね。一方、「1」の単位の貨幣は「0枚、1枚、2枚、3枚、4枚」のいずれか。「1」の貨幣が財布の中にないなんてことは滅多(めった)にないのだ。

 つまり、「1」の貨幣に課せられる役割の高さは、「5」の貨幣とは比べものにならない。だから、この「1」と「5」だけで貨幣を扱うこの構造では、必然的に「5」の貨幣の流通量は極端に少なくなってしまうのだ。

 お店で1万円札を使ったときを思い返してみよう。 5千円札を含んだお釣りを期待しているのに、

全部 千円札で返ってくること。

かなりの確率で思い当たらないだろか? 頻繁にあるよね?

 これは、5千円札はそれだけ流通量が少なく、「5」の役割を課せられたはずの貨幣は、その機能をしっかりと果たしていない現状があるということなのだ。

 その救世主となるのが、

弐千円札。


 この貨幣が存在することは、千円札に課せられた役割が激減することを意味する。今までは、「0枚、1枚、2枚、3枚、4枚」のいずれかだったのに、これからは「あるか ないか」になる。

 つまり、千円札、二千円札、五千円札のそれぞれの役割が、より明確になる。そう、むしろ、今後 最も流通するだろう貨幣は、

二千円札になるんじゃないかな。


 ニューヨークに行ったときのこと。アメリカドルには「20ドル札」が存在する。

 ほとんどの買い物はクレジットカードでできたんだけど、ご飯を食べるときやちょっとした買い物をしたいときに、最も便利な貨幣は「20ドル札」だということを実感した。いや、20ドル札の流通量が多いために、必然的に利便性が高くなっていると言えるんじゃないだろうか。

 逆に50ドル札は滅多に出会わない。感覚的には、50ドル札という貨幣は、財布に存在し得る最高額なために、銀行からお金を引き出したとき以外に、手に入れるチャンスがないような感じ。日本の1万円札のような感じかな。


 そんなワケで、二千円札を歓迎し、期待している荒熊でありますが、やっぱり 当面の不安材料はあるんだよなぁ。

 駅の自動券売機や銀行のATM(自動預払機)が、まだ二千円札に対応していないこと。

 サミットに間に合わせたいっていう気持ちは分からなくはないけど、そういう整備が整ってから導入すべきだったんじゃないかなぁ。

 それから、「偽造防止」の特殊技術。一般の印刷機では真似のできないマイクロ文字や、斜めにしないと現れない模様などの特殊印刷技術が、ふんだんに盛り込まれているらしい。

 でも、最近の「偽貨幣」の事件って、たいていが小売店で使用されて、釣り銭をあてにしていることを考えると、紙幣自体への偽造防止策はもちろんだけど、小売店の店頭で簡単に「偽貨幣」の判別ができる仕組みの確立も重要なんじゃないだろか。


 てなことで、何を血迷ったのか、思わず 15枚もの二千円札を手に入れてしまった。早速 使ってみたいような、なんだか もったいないような。とりあえずは、友達への両替商にでもなりますか。だはは。