荒熊ノンフィクションエッセイ

カルピスソーダ



 夏。

 夏はやっぱり「カルピス」に限る。とはいっても、あの「カルピスウォーター」ではない。あれは不経済だ。やはり、あの茶色い瓶の「カルピス」でなければならない。

 しかし僕の夏はそれだけでは満足されない。瓶に入った「炭酸水」が必要である。サントリーから発売されているあれだ。なぜか。当然のことではあるが、「カルピスソーダ」をつくるためだ。

 「カルピス」と「炭酸水」さえあれば、僕の夏は完璧だ。缶入りの「カルピスソーダ」を買わずして、思う存分「カルピスソーダ」を飲める優越感はこの上ない。

 僕は、こうしてここ何年か、「カルピスソーダ」を欠かした夏を経験していない。

 ある年の夏のある日のこと、その事件は起こった。「カルピス」が切れてしまったのだ!

 幸か不幸か、「炭酸水」だけは冷蔵庫で冷えている。

 そのとき 僕の脳裏に、ある重要な計算式があらわれた。

「カルピス」+「炭酸水」

=「冷たくておいしいカルピスソーダ」

 この基本的な計算式は、応用されることを待ち望んでいるようだった。僕はその望みを叶えようとした。

 そして 僕の脳裏に、鋭く一筋の閃光が走ったのだ!

「コーヒー」+「炭酸水」

=「冷たくておいしいコーヒーソーダ」

 なぜ、今までこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう。しかも「コーヒーソーダ」は「カルピスソーダ」と違って、どこにも売ってはいないのだ。

 早速、僕は「マキシム・インスタントコーヒー」と「砂糖」、そして「炭酸水」を用意して、この「冷たくておいしいコーヒーソーダ」をつくったのだ!



 予期せぬ出来事はそのとき起こった。「冷たくておいしいコーヒーソーダ」は、まずかったのだ。さすがの僕もこれを飲み干すことはできなかった。

 今思えば、相当まずかった、いや、まずいなんてモノじゃない、飲めたもんじゃなかったのだ!

そうか。だから、飲み干すことができなかったのか。

 僕がその日に抱えた挫折感は、きっと大人への架け橋として役にたつだろうと、半ば諦めの気持ちであった。

 しかし、その挫折感は数日後、完全に消えた。発見してしまったのである!

『ネスカフェ・コーヒースカッシュ』

 そう書かれた黒い缶が、コンビニエンスストアの「UCC缶コーヒー」のとなりに当たり前のように並べられていた。「スカッシュ」という単語を使ったネーミングセンスに、まず僕は負けてしまったようである。

 しかも、その缶を目の前に僕があげた「ヒョヤ」という微かな奇声を、周りの人たちは聞き逃してはいなかったらしい。僕は一瞬、コンビニエンスストアの静けさを奪ってヒーローになっていた。

 僕は悩んだ。「コーヒーソーダ」がまずかったのは、「マキシム」だったからか?それともコーヒーと砂糖と炭酸水の配分を誤っていたのか?

 しかし、僕の着眼点は正しかったのだ。早速「コーヒーソーダ」の研究を再開しなければならない。使命感さえ帯びたこの事態に、興奮を隠すことはできなかった。

 僕は、そのコンビニエンスストアで「ネスカフェ・ゴールドブレンド」と「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」二本を買い求め、高鳴る胸を抑えながら帰宅した。

『ネッスル社はどんな味で、コーヒースカッシュを発売したのだろう。』

 まず、製品化された味を試し、分析することによって、調合の配分を考えることにしよう。そう決意し、二本買った「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」の内、一本を開けた。口に含んでみた。



『この味は前に味わったことがある。』

 「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」の味は「コーヒーソーダ」の味に酷似していた。いや、少しまろやかだったかも知れない。

 あまりにもショックであった。「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」はまずかったのだ。

 そのまずさに気づいたと同時に、

『これは、ネッスル社が僕に仕向けた罠だ。』

ということに気づこうとしていた。

 普通なら、新製品というものは広告宣伝するものである。ネーミングセンスについては取り分け有名なチョーヤ社の炭酸梅酒「ウメッシュ」でさえも、あれだけテレビコマーシャルで宣伝しているのに、一流コーヒーメーカーであるネッスル社が「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」を宣伝していなかったのは理解できない。

 すなわち、僕があの日あのコンビニエンスストアへ行くことを察知したネッスル社が、僕に買わせるためにあのコンビニエンスストアに「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」をセットしたに違いない。そして罠にはまった僕をネッスル社の社員は笑っていたのだろう。

『ちくしょう、はめられた!』

 でも、僕をはめたところで、ネッスル社は何の利益もあげることはない。僕のこの推測は間違っている。

 そのとき、

『単に、僕の味覚がおかしいのではないか。』

という新しい切り口が見つかった。



 丁度、二本買った内の一本はまだ開けてはいない。

 僕は味覚には冴えていると思われる親友のS氏にこれを味わってもらわずにはいられなくなった。

 僕は走っていた。「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」を右手にしっかりと握りしめて。

 玄関先でS氏に味わってもらうことにした。

『へぇ。コーヒースカッシュか。めずらしいね。』

 良かった。予備知識がなかった。

 もしS氏が、僕のように「コーヒーソーダ」を過去につくっていたとしたら、他の友人を考えなければならなかっただろう。

 S氏が「ネスカフェ・コーヒースカッシュ」に口をつけた。

 次の瞬間、S氏の顔が変わった。目を丸くして僕をしっかりと見つめている。まるで感動ものの映画を見終わって、誰にも見せられない顔になっているときのようだった。

 そして、ぐいぐいとすべてを飲み干したあとに一言。

『これ、まずいね。すごくまずいね。』

 そういえば、彼はパセリを食う男として有名だった。すべてを飲み干した訳をそこに察することができる。


 あれから五年は経つだろうか。僕は未だに「コーヒーソーダ事件」に決着がついていない気がしている。

 そして、今なら確実に言えることがある。

『ネッスル社は失敗したらしい。』

 悲しいことに、僕の「コーヒーソーダ」の発想は、ネッスル社によって、完全に失敗であることが保証されている。

 やはり、炭酸水の相棒は「カルピス」に限るのだった。

Written at Aug.18,1995


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